ジャパニーズ・ヌーベルバーグを振り返る PART1

11月21日 「ジャパニーズ・ヌーベルバーグを振り返る PART1」 (やまばとホール)

●Time Table●
11:00−11:10
11:10−12:23
13:00−14:36
15:00−16:43
オープニング
くちづけ
青春残酷物語
心中天網島

くちづけ
1957年/大映製作・配給/1時間13分
 
監督=増村保造
原作=川口松太郎
脚本=舟橋和郎
撮影=小原譲治
音楽=塚原晢夫
美術=下河原友雄
出演=川口浩、野添ひとみ、三益愛子、若松和子、小沢栄太郎
 
[ストーリー]
 欽一(川口)と章子(野添)は小菅の拘置所で面会室で知り合う。それぞれの父親はちょっとした犯罪で拘留の身だが、保釈金がないため出られない。欽一は章子をオートバイに乗せて海まで行き、2人は青春のひとときを過ごす。その時、欽一は別れた母親を見つけ、彼女の所在を探り、お金を要求する。父親の保釈金のためだ。しかし、せっかく手に入れたお金は弁護士の冷たい仕打ちで用なしになってしまう。その時欽一は章子にお金を渡そうと思うが、彼女の住所を書いたメモがなくなっている。一方、その頃章子は父の保釈金と母の入院費に困り、身体を売ろうとしていた……。
 
[コメント]
 増村保造の再評価(特に若者に)はここ数年高まり、今年はとうとう全作品の特集上映(現在、渋谷ユーロスペースで絶賛上映中!)まで組まれることとなった。そこには単なる古き良き日本の姿があるのではなく、今の若者にも説得力のあるモダンな映像があるのだ。例えばこの作品のタイトルになっている『くちづけ』の描写にしてもそうだ。若い男女が恋の高まりの果てに行うものとしては、あまりにも荒々しく、動物的だ。増村監督は後年、この演出についてこう語っている。「世間や環境は一切無視して、人間の裸の本能、剥き出しの欲望を白日の下にさらけ出し、思いっきり踊らせて、自由の天地を表現したいと思いました。世間的な配慮がないために、その人物の心情は大げさになり、時には非常識であり、更には狂気じみるでしょう。しかしそれ以外に、日本的な灰色の世界を脱して、力強くたくましい原色の生命に迫る方法はないと判断したのです」。こうした確たる理論の上で描写されるデュオニュソス的な狂気の世界。それは伝統的な日本人の姿ではなく、日本人が憧れもつ西欧的近代人の姿だ。国際社会のなかで元気がないとされる現代ニッポン、増村作品は未だに異彩を放つ。ちなみに11月23日が監督の命日だそうです。合掌。 (セ)

青春残酷物語
1960年/松竹製作・配給/1時間36分
 
監督・脚本=大島渚
撮影=川又昂
音楽=真鍋理一郎
美術=宇野耕司
出演=桑野みゆき、川津祐介、久我美子、渡辺文雄、佐藤慶、浜村純、佐野朝夫
 
[ストーリー]
 松竹ヌーベル・バーグの騎手として鮮烈に登場した大島渚監督のデビュー2作目。少しグレた女子高校生マコ(桑野)は、面白半分で中年紳士の車に乗せてもらい、ラブホテルに連れ込まれそうになる。そこへ通りかかった大学生・清(川津)は、彼女を助けたうえに、紳士から金を巻き上げる。そのお金に味をしめた二人は、つつもたせをするようになり、破滅への道を突き進む……。
 
[コメント]
 松竹ヌーベル・バーグの作品(特に大島監督作品)を2000年という今、見直すとその政治意識の高さに感慨深い思いを抱く。この作品は1960年、つまり「60年安保」という政治の季節に製作された。その当時の学生や知識人にとって、当時の政治状況は抜き差しならぬ自己の問題だった。「おれたち自身を道具や売り物にして生きていくしかないんだ」そうつぶやく清の姿は、当時の敗北感に苛まれていた若者の心情をみごとに代弁していたに違いない。そこには「映画は感動だ! ロマンだ! エンターテイメントだ!」なんて甘言はこっぱみじんふっとんでしまう。そんな作品群を80年代頭に学生だった私は、今はなき池袋文芸坐のオールナイトで観て、ただただ圧倒され「この人にとって救いとはなんなんだろう?」という思いを激しく抱き、彼の多くのファンと同様、その言動に注視してきた。その間、彼は言論人として闘っていた。映画を取り巻く状況が彼を必要としていないかのように推移しているようだった……。1999年、彼は16年ぶりに新作を撮る。それは一見、ロマンに満ちた映像のように立たたずんでいた。しかし、それは「映画」と「政治」があまりにかい離した時代状況を反映させ、そして世紀末に対するメッセージがある。ただ、昔のようなアジテーションはなく、老獪さが漂う映像美で。彼の闘いはまだまだ続くと信じたい。 (セ)

心中天網島
1969年/表現社、ATG製作・配給/1時間43分
 
監督・脚色=篠田正浩
原作=近松門左衛門
脚色=富岡多恵子、武満徹
撮影=成島東一郎
音楽=武満徹
美術=粟津潔
出演=中村吉右衛門、岩下志麻、滝田裕介、小松方正、加藤嘉、藤原釜足、浜村純
 
[ストーリー]
 紙屋冶兵衛(中村)には女房のおさん(岩下)と2人の子どもがありながら、曽根崎新地紀伊国屋のお抱えの遊女小春(岩下二役)と深く馴染んでいた。小春につきまとう成金の太兵衛(小松)は金にあかして小春を身請けしようとする。心中するしか道のなくなった冶兵衛と小春は、夜明け前に駆け落ちをして大坂から京へと上って行く。網島の大長寺。草むらで抱き合ったふたりは、「一緒に居続けること=心中」の決意を固める。
 
[コメント]
 冒頭、篠田正浩監督が脚本家の富岡多恵子氏に電話をかけるところから始まる。ラストシーンに至る墓地のロケ地についての相談から一転して原作である浄瑠璃の最後、冶兵衛が小春の喉を突く人形場面が置かれ、そこから一気に本編へと導入して行く。この意表を突くファーストシーンから、以後のストーリー展開はあたかも篠田監督が舞台の天井から全体を俯瞰して人形を操るが如く進行する。黒子が前面に登場してふたりの運命を導いていくのをはじめ、現代美術のような遊郭のセット、武満徹の現代音楽との融合と、近松門左衛門の原作を大胆かつ自由闊達な解釈(アイディア)に基づいての映画化は、この世界に造詣が深く独自の美意識を持った篠田監督でしかなし得ない。この映画を銀座並木座で観てから20年以上経つが、草むらでふたりが抱き合うシーンは今でも鮮明に瞼に焼き付いている。モノクロ画面でヌードシーンがあるわけでもないのに、これまで味わったことのない背中がぞくぞくするようなエロティシズムに衝撃と興奮を覚えたのは昨日のことのようだ。この作品が作られてから30年以上が経つが、伝統的な原作物にここまで大胆な作品が他に現われてきていないことからも、日本映画史に残る非常に重要な作品であるといえる。 (淳)