11月26日 「ゴダールの映画史」 (ベルブホール)
●Time Table● | |
11:00−13:29 14:10−15:00 15:20−17:19 |
第I部 講演 梅本洋一氏(映画研究家) 第II部 |
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第I部 講演 梅本洋一氏(映画研究家) 第II部 |
映画史 HISTOIRE(S) DU CINEMA |
1998年/フランス/GAUMONT,PERIPHERIA,CANAL PLUS,LA SEPT,FR3,JLG FILMS,CNC,RSTR,VEGA FILMS,FEMIS 製作/フランス映画社配給/4時間28分 |
監督・編集=ジャン=リュック・ゴダール 音楽=ヒンデミット、オネゲル、ベートーヴェン、バルトーク他 編集=ウォルター・マーチ 出演・声=ジュリー・デルピー、サビーヌ・アゼマ、アラン・キューニー、ジュリエット・ビノシュ、セルジュ・ダネー、ジャン=ピエール・ゴス、アンヌ=マリー・ミエヴィル、アンドレ・マルロー、パウル・ツェラン、エズラ・パウンド |
[解説] |
第I部(2時間29分) 第1章=1A [すべての歴史](51分) ゴダールが『映画史』への旅に出発する。「何も変えるな、すべてが変わるため」にというブレッソンの言葉(『シネマトグラフ覚書』)と、「戻るは大事業、大難事」という詩人ウェルギリウスの言葉が壮大な旅の冒頭を飾る。並の通史的な映画史ではない。膨大な量の映画を、文学、哲学、絵画、音楽、現代史とモンタージュして真の映画を追及する。他の誰にもできない映画史だ。引用の嵐。しかし引用のもとを知る必要もないほどの豊かな叙情の力が疾走して、未知の映画体験を味わえるだろう。<すべての歴史>は、映画の誕生から始まる。 第2章=1B [ただ一つの歴史](42分) 『映画史』全8章で第1章は1A、第2章は1Bとされ、各章のAとBが対をなすことを示しているが、カサヴェテスとローシャに捧げられたこの章では、歴史と物語の孤独を主テーマに、ヒンデミット、レナード・コーエン、ジャニス・ジョプリンや、ジャン・ルノワールらの声で異常に重層的なサウンドを創りだし、イヴェンスやドウジェンコ、ドライヤーらゴダールが敬愛する作家たちへのオマージュから、映画への検証に展開。1Aと1Bは89年に発表した初版を今日新たに編集した決定版だ。 第3章=2A [映画だけが](27分) 歴史家の仕事は何か。歴史で起きなかったことを明確に記述すること。映画批評家セルジュ・ダネーとの対話で過激な映画史論が展開する。映画は20世紀の産物か? いや、19世紀の産物。ヌーヴェル・ヴァーグ以後の世代には、観る映画の数が急激に増えた? いや、映画史を通して10本あるかないか。しかし映画は、映画だけが、歴史たりうる唯一の芸術だ。映画だけが、自らを未来に投げ出す。『狩人の夜』。ジュリー・デルピーが読むボードレールの<旅>。クリムトの絵。夢まぼろしの映画世界が現出する。 第4章=2B [命がけの美](29分) ド、レ、ミ、ファ……ファタール。宿命の命がけの美。命がけの瞬間。性と死は、映画の歴史がまだ幼い頃から二つ大きなテーマだった。銃を見せるカメラは男性性器位置に、女性を見せるのは胸の位置に。愛の物語の奥には乳母の歴史がある。アルベルティーヌ。マルセル・プルースト……。映画が芸術でも技術でもないのなら何なのか? 神秘……。サビーヌ・アゼマの言葉にヘルマン・ブロッホの<ウェルギリウスの死>が輝く。時を語る不可能な挑戦、ウェルズの『偉大なるアンバーソン家の人々』。 第II部(1時間59分) 第5章=3A [絶対の貨幣](27分) タイトルはアンドレ・マルローの著書から。時を超えて届く声、絶対の価値、絶対の貨幣……。20世紀末のサラエボでの事態をアクチュアルに糾弾する19世紀の声。闇からの回答。映画は写真を相続して始まった。近代絵画の父マネは、映画の父でもあったのではないか? 過去は死なない、過去ですらない。あの1942年の列車。『悪魔が夜来る』のアラン・キュニーがよみがえる。イタリアでは2度も裏切ったのに、戦後イタリア映画の凄さはどういうことか……。『イタリア旅行』、『無防備都市』、『ウンベルトD』、『道』、『山猫』……。 第6章=3B [新たな波](27分) ヌーヴェル・ヴァーグはアンリ・ラングロワのシネマテークから生まれた。映画博物館、現実の博物館。そこには光があった。『大人は判ってくれない』がロッセリーニの『火刑台のジャンヌ・ダルク』と交錯し、『現金に手を出すな』のギャバンとパゾリーニの『奇跡の丘』のキリストのシーンが対話する。本当の映画とは、観ることのできない映画? 人の心には、まだ存在しない場所がある。シュトロハイム、ラングロワ、ヴィゴ。さらなる新たな波。ベッケル、ロッセリーニ、メルヴィル、ドゥミ、トリュフォーへのやさしい追悼がこの章を閉じる。 第7章=4A [宇宙のコントロール](28分) 荒荒しい風のなかでの撮影(『フォーエヴァー・モーツアルト』)で始まる4Aはヒッチコックへの大いなるオマージュの章。アレクサンダー大王、シーザー、ナポレオン、ヒトラーが果たせなかった宇宙のコントロール(支配・掌握)を、ヒッチコックは果たした。ドライヤーとただ二人、奇跡を映画にできた映画作家だ。子どもたちが襲われる『鳥』、ケイリー・グラントがジョン・フォンティーンにミルクのグラスを運ぶ『断崖』、排水溝に落ちる『見知らぬ乗客』のライターは誰の脳裏にも深く残っている。 第8章=4B [徴(しるし)は至る所に](37分) 終章はレクイエムを思わせる深い静謐さで展開する。徴(しるし)は人生に、映画にあふれている。タイトルはスイスのシャルル=フェルディナン・ラミュの1919年の小説からで、ゴダールが以前から映画化を夢見た、行商人の物語だ。世界の終焉を告げる行商人とは何者か。『巴里のアメリカ人』、『ジュデックス』、ピカソ、ダヴィンチの絵。収容所で、瀕死のユダヤ系ドイツ人をナチスは<モスレム>と呼んだ。シャルル・ペギーの<歴史のクリオ>。決して結びつかないものを結びつけること。ボルヘスの寓話の、ありえない夢を見た男……。 |
[コメント] |
ゴダールが80年代半ばから取りかかり、ようやく完成したライフワークと呼ぶべき傑作。だがゴダールのこと、いわゆる教科書的な映画史になるはずもなく自身がこれまで影響を受けた監督、アクター、作品を羅列し、そこにさまざまなモチーフ(言葉や残像など)をちりばめることによって、(勿論いろんな実験もありつつ)かつてない映像・スタイルの作品となっている。ここで思うのは、かつて文章でしか表してこなかったこれらの<ネタ>をはじめて映像にしたという点で、カサベテスや溝口、アメリカ映画など、彼の好きな映画、女優その他(あくまで断片的ではあるが)いろいろと見えて興味深い。なかでも触れているが、この企画(『映画史』はフランスの雑誌の依頼によって作られている。)を50年代後半にデビユーしたゴダールが作るということは、(ルネ・クレールやルビッチといったちょっと前の世代、もしくはニューシネマの世代と比べてみると)ちょうど映画100年の真中の世代に彼があたり、また映画批評を初めてフィルムに反映させたのも彼らヌーヴェルバーグの世代であった点からこれ以上の適任者はいないと言える。そんなよこしまな想像はともかく、この“映像体験”を楽しめるかどうかはあなたのセンス次第でしょう。(ゴダールですからね) (舟) |