11月30日 「ホラー映画アジア選手権」 (パルテノン多摩小ホール)
●Time Table● | |
12:00−13:32 14:15−15:57 16:20−17:59 |
呪怨2 ボイス the EYE |
呪怨2 |
2003年/『呪怨2』製作委員会(パイオニアLDC、日活、オズ、ザナドゥー、角川書店、東京テアトル)/ザナドゥー、東京テアトル配給/1時間32分 |
監督・脚本=清水崇 撮影=喜久村徳章 美術=常盤俊春 音楽=佐藤史朗 編集=高橋信之 出演=酒井法子、新山千春、堀江慶、市川由衣、葛山信吾 |
[ストーリー] |
呪われた家をレポートするテレビの心霊特番の製作に関わったスタッフ・キャストに、次々と怪奇現象が降りかかる。かつて惨殺事件が発生した1軒家をTVクルーが取材した晩、出演者が交通事故に遭うなどおぞましい出来事が次々に発生。ディレクターはその原因を探るために再び家を訪問するが……。 |
[コメント] |
映画のなかで観客が一番恐怖を感じるのが、正体が分からない登場人物だとすれば、この作品が続編でありモンスターの正体が分かっている時点で、ホラー映画としてハンディキャップを背負っているのは否めない。しかし、この作品の登場人物たちが追いつめられた時に見せる最後の表情には、思わず引き込まれる恐怖がある。この迫真の演技こそが、分かっていても、次の瞬間に映される伽椰子と俊雄の霊への恐怖感を高めている。 そして、この作品で背筋が冷たくなるのは、登場人物たちに降りかかる運命の不条理さである。TV番組の製作に携わったばかりに、登場人物たちは日頃の行いに関係なく呪い殺され、肉親や身近な人物を守ろうとする行為まで最後には無意味に打ち砕かれていく。追われる登場人物の叫びに対して、伽椰子と俊雄は何も答えずただただ呪い殺し続けるのだ。作品の根底を流れるこの無表情さこそが、この作品の本当の怖さだろう。 (長) |
ボイス Phone |
2002年/韓国/ブエナビスタインターナショナル(ジャパン)/1時間42分 |
監督・脚本=アン・ビョンギ 脚本=イ・ユジン 撮影=ムン・ヨンシク 美術=チャウ・ソンウォン 音楽=イ・サンホ 編集=バク・スンドク 出演=ハ・ジウォン、キム・ユミ、チェ・ウジェ、ウン・ソウ、チェ・ジヨン |
[ストーリー] |
女性ジャーナリストのジウォン(ハ・ジウォン)は、援助交際の実態を告発したレポートを発表してからさまざまな脅迫を受けるようになる。身の危険を感じたジウォンは携帯電話の番号を変更し、郊外の一軒家を借りて引っ越すことになった。だが引越し直後から、彼女の周囲には不思議なことが次々起こり始める。携帯電話にかかる着信履歴のない電話。その声を聞いたホジュンの幼い娘ヨンジュ(ウン・ソウ)は、それ以来奇声を上げたり、母親に凶暴な振舞をするようになってしまった。 |
[コメント] |
この映画が目をつけたのは、解約された電話番号が次々に別の契約者へと引き継がれていくという仕組み。携帯や電話を新規契約した際、前の持ち主あての通話を受けた経験を持つ人は多いと思う。「前の持ち主はなぜ電話を解約したのだろう?」「なぜ解約して番号が変わったことを連絡しないまま放置していたのだろう?」などと考えると、そこに何かしらの物語や因縁を感じることもある。おそらくこの映画の発想の原点は、そんな誰もが持つ疑問にあったのではないだろうか。こうしたホラーものでは、小さなドラマが大きな世界に広がっていくのがひとつのパターンになっている。ところがこの映画はそれとまったく逆。無作為に人を殺していく呪いの電話や、社会問題になっている援助交際やジャーナリストへの脅迫といった話から、家庭内の母と娘の葛藤といったパーソナルな部分へと着地していく。 (石カ) |
the EYE THE EYE |
2002年/香港、タイ/クロックワークス配給/1時間39分 |
監督・原案・脚本・編集=オキサイド・パン、ダニー・パン 撮影=デーチャー・シーマントラー 美術=クリッタパット・スッティネート、サイモン・ソー 音楽=オレンジ・ミュージック 共同編集=ジョジョ・ホイ 出演=アンジェリカ・リー、ローレンス・チョウ、チャッチャー・ルチナーノン、キャンディ・ロー |
[ストーリー] |
幼いころに失明したマン(A・リー)が、20歳を迎えて角膜移植手術を受けた。リハビリに励み視力を取り戻していくが、黒い影や不可解な人物を目撃するようになる。周囲の人たちは、術後の精神不安定だと決めつけ、信じようとはしなかった。目の見えない生活の方がよかったと真っ暗な部屋に閉じこもるマン。しかし、その裏に驚愕の事実があったことをマンはまだ知らなかった……。 |
[コメント] |
この映画は「盲目だった香港の16歳の女性が、角膜移植をした1週間後に自殺してしまった」という新聞記事に触発されて作られたのだという。普通の人に見えるものが見えないことと、普通の人には見えないものが見えることのどちらがより苛酷であるのかは、そのどちらにも縁のない僕には察しのつきにくいことながら、普通と比べてというよりも、人の死というものが、不断に視覚として自分のなかに侵入してくることが実に耐え難いものであろうことは、容易に察しがつく。映画では、この耐え難さというものが視覚的によく表されていた。音で脅かすばかりの手法があまりに横行していることに閉口しているだけに、映像に工夫が凝らされていることが妙に嬉しかったりする。 (石オ) |