11月26日 「子供たちが主役」 (パルテノン多摩小ホール)
●Time Table● | |
15:00ー16:50 17:05ー19:05 19:30ー21:09 |
ウオルター少年と、夏の休日 少女ヘジャル ぼくセザール10歳半1m39cm |
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15:00ー16:50 17:05ー19:05 19:30ー21:09 |
ウオルター少年と、夏の休日 少女ヘジャル ぼくセザール10歳半1m39cm |
ウオルター少年と、夏の休日 Secondhand Lions |
2003年/アメリカ/日本ヘラルド映画配給/1時間50分 |
監督・脚本=ティム・マッキャンリーズ 撮影=ジャック・グリーン 音楽=パトリック・ドイル 出演=マイケル・ケイン 、ロバート・デュヴァル 、ハーレイ・ジョエル・オスメント 、キラ・セジウィッグ 、ニッキー・カット |
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[ストーリー] |
父親のいないウォルター少年(H・J・オスメント)が母親から離れて預けられた田舎の家。テレビも友だちもなく、広い大地と無愛想で頑固者のおじいさん2人(M・ケイン、R・デュヴァル)とだけの生活。なじめないウォルターだが、古い美しい女性の写真を見つけたことから、おじいさんたちの謎めいた過去が……。 |
[コメント] |
アメリカで「スクリーンで観たい脚本No.1」に選ばれた少年の成長物語。実力派俳優の出演で見事に映画化された。子供たちの問題行動や犯罪が取り沙汰されるが、子供たちは大人たちの鏡ではないか。良い大人になるためには、自立できる体力と知力が身につくまで、手本となる大人と一緒にすごす時間と空間が必要なのだ。男の子には「良い大人の男」のサポートが必要だ。大人とは「自分を幸せにできる人」と私は定義している。良い大人は、自分のほかに家族や友人、知人なども幸せにできる。偉人と呼ばれるような人は、人類皆を幸せにできる大人である。 原題は『Secondhand Lions』。2人のおじいさんが、番犬ならぬ番ライオンとして通販でライオンをお取り寄せする。そんな破天荒な、ちょっと古いけど質の良い大人の男をマイケル・ケインとロバート・デュバルが楽しげに演じ、ウォルター少年はハーレイくんのはまり役である。 (苅) |
少女ヘジャル HEJAR |
2001年/トルコ/アニープラネット配給/2時間 |
監督・脚本=ハンダン・イペクチ 撮影=エルダル・カーラマン 音楽=セルダル・ヤルチン、マズルム・チメン 出演=ディラン・エルチェティン、シュクラン・ギュンギョル、フュスン・デミレル、ユルドゥス・ケンテル、I・ハック・シェン |
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[ストーリー] |
5歳のクルド人の少女ヘジャル(D・エルチェティン)は、両親を殺され、イスタンブールの親戚に預けられるが、その親戚もまた武装警官の襲撃に遭い殺されてしまう。隣人のトルコ人の老人が少女をかくまうことにしたが、言語の壁も心の壁も越えられないまま2人の生活が始まる。クルド人であることを隠し、老人の家政婦として暮らしてきた家政婦のサキネが橋渡し役になるが、2人はどのように歩み寄っていけるのだろうか。トルコにおけるクルドの微妙な問題が浮き彫りにされていく。 |
[コメント] |
女性監督がトルコ人として初めてクルド人問題に取り組んだ作品として注目を浴びた本作だが、普遍的な社会的問題を身近なものとして感じさせてくれる設定になっている。 この作品の時代背景は1998年で、トルコ政府軍とクルド人反政府ゲリラとの対立が過激な時期。警官のクルド人への扱い方が残虐すぎるという理由により、トルコでは一時上映禁止になったが、再び上映を許可されて動員数10万人のヒット作になったといういわくつきのもの。近年、クルド人やトルコ事情をテーマにした佳作が日本で観られるようになったが、是非『少女ヘジャル』(「ヘジャル」とはクルド語で「抑圧された人」)も、事実を探求するきっかけになればと願う。 (冨) |
ぼくセザール10歳半1m39cm MOI CESAR 10ANS1/2 1m39 |
2003年/フランス/アスミック・エース配給/1時間39分 |
監督・脚本=リシャール・ベリ 脚本=エリック・アスス 撮影=トマ・ハードマイアー 音楽=レノ・イザーク 出演=ジュール・シトリュク、ジョゼフィーヌ・ベリ、マポ・クヤテ、アンナ・カリーナ |
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[ストーリー] |
パパが刑務所に入ると勘違いしたセザール(J・シトリュク)はそれをみんなに言いふらして同情を買うが、間違いだとわかって学校での評判はガタ落ち。優しくしてくれるのは同じクラスのサラ(J・ベリ)とモルガン(M・クヤテ)だけ。 ある日、モルガンから実の父親を探しにサラとロンドンに行くと聞いたセザールは、自分も旅立つ決意をする。 |
[コメント] |
小学生の頃、E・ケストナーの「エーミールと探偵たち」を読んで、彼らの活躍にワクワクするだけでなく、そこに描かれる子どもたちの世界に強い憧れを抱いた。そのときはその理由が漠然としていたが、今にして思うと子どもの目線の高さで描かれている子どもだけの社会が羨ましかったのだと思う。子どもの時分は「もう大人に負けないことをしてるんだぞ!」という強い意識があるが、日本の児童文学だとそれを大人の視点から描いているものが多いように思える。もしかしたら日本よりヨーロッパの方が、<子どもの自我>を尊重しているのかもしれない。 この作品も<子どもの自我>を尊重している作品で、セザールをとりまく子どもたちの関係はチャーミングだけど自律した社会を形成しているし、子どもたちの社会を大人もごく自然と受け入れているのが爽やかに感じられる。 一風変わったタイトルだが、身長と上映時間が一致しているなど、どこまでも粋な作品である。 (淳) |