おすぎの特選映画シアター

10月10日 「おすぎの特選映画シアター」 (やまばとホール)

ラヴィ・ド・ボエーム
LA VIE DE BOHEME
1992年/フィンランド/スプトニク/シネセゾン配給/1時間43分
 
監督・脚本=アキ・カウリスマキ
原作=アンリ・ミュルジエール
撮影=ティモ・サルミネン
美術=ジョン・エブデン
出演=マッテイ・ぺロンパー、イヴリヌ・ディディ、アンドレ・ウィルムス、カリ・ヴァーナネン
 
[ストーリー]
 パリの下町の同じアパートで暮らしている3人の芸術家、作家のマルセル(A・ウイルムス)、画家のロドルフォ(M・ぺロンパー)、音楽家のショナール(K・ヴァーナネン)は貧しいながら悠々自適の生活を送っていた。ロドルフォは、行き場がなくて困っていたミミ(E・ディディ)と恋いに落ち、マルセルの恋人ミュゼットを含め5人の共同生活は幸福そのものだった。しかし、貧しい生活に疲れた2人の女は3人のもとを去る。再び、ミミが3人の前に姿を現した時、ミミは不治の病に冒されていた。
 
[コメント]
 人は何を基準として幸福と呼ぶのだろう。この映画には派手なアクションや美しい女など登場しない。3人の男たち(作家・画家・ピアニスト)がただひっそりと肩を寄せ合ってしみじみと毎日を生きているだけだ。しかしその何でもない日常の中に、男たちの自由気ままに生きてきたがゆえのかけがえのない暖かい安らぎが息づいているのである。監督のカウリスマキはこれまでブラックユーモアたっぷりの、ノー天気な作品を撮ってきた人だが、この「ラヴィ・ド・ボエーム」では一転して1930年代のリアリズム調を踏襲したスタイルで、30年代のパリを舞台に当時の空気をモノクロのフィルムで表現し、人生のほろ苦さ、3人の男たちの生き方を見事に描き出している。 (舟)

枯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件
1991年/台湾/楊徳昌電影/ヒーロ・コミニュケーションズ配給/3時間8分
 
監督=楊徳昌
脚本=楊徳昌、間鴻亞、頼銘常
撮影=張恵恭
音楽監修=慮宏達
美術=楊徳昌、余為彦
出演=張震、楊靜恰、張國柱
 
[ストーリー]
 男子中学生によるガールフレンド殺害という実話に基づき、60年代の台湾の社会情勢及び思春期の子供達の精神構造を映しだす1作。
 中学生の夜間部に通うスー(張震)は小公園不良グループのボス、ハニーの彼女のミン(楊静恰)に恋する。そのハニーは対抗する軍人村不良グループのボスとミンを奪いあった末相手を殺害し、台南へ逃げている。一方、軍人村グループの新ボス、シャンドンは小公園グループを乗っ取ろうと虎視眈々と狙っている。アメリカンポップスに沸き立つコンサート当日、会場に現れたハニーはシャンドンに和解を求めるが、シャンドンは走ってくるトラックにハニーを突き飛ばして殺してしまう。ショックでミンは寝込み、怒ったスーはヤクザとハニーの仕返しに行く。
 
[コメント]
 子供達の日常をむきだしのフィルムにただ収めたようなドキュメンタリータッチが全編を覆う「枯嶺街少年殺人事件』は、NHKのドキュメンタリー特集よりも重く、ウーロン茶のCMよりもアジアらしくて、『E.T.』よりも深く感動的だ。
 それは子供達の日常をただ見つめるという行為が人間の本質をつきつめるという行為に直結していることに他ならないからなのだが、ひたすら観客に形としての工クスキューズを見せず、つきつめられた事実のみをつきつけていく楊徳昌の演出は暗闇にともる光の如く生のゆらめきをフィルムに焼きつけている。そして日常を積み重ねていくことによって、子供達の内に秘めた怒り、感情を肉体化するのに成功しているのである。これからのアジア映画を感じさせる傑作だ。 (舟)

ダメージ
DAMAGE
1992年/イギリス・フランス合作/ネフ・スクレバ・スタジオ/シネセゾン・東京テアトル・テレビ東京配給/1時間51分
 
監督=ルイ・マル
原作=ジョゼフィン・ハート
脚本=デヴィッド・ヘアー
撮影=ピークー・ビジウ
音楽=ズビグニェフ・プレイスネル
美術=ブライアン・モリス
出演=ジェレミー・アイアンズ、ジユリエツト・ビノシュ、ミランダ・リチヤードソン
 
[ストーリー]
 大臣の椅子が間近なエリート政治家ステイーブン(J・アイアンズ)は息子の恋人アンナ(J・ビノシュ)に初対面した時、彼女の視線にただならぬ恋の予感を感じる。許されぬ関係であることを知りながら、2人は共にもつ心の空白を埋めるため強く惹かれあう。だが、いつまでも続くはずのない関係が終焉を迎えた時、ステイーブンはアンナヘの想いを残したまますべてを失ってしまう。
 
[コメント]
 絹の手触りを思わせる映画だ。映像を構成するあらゆる要素が繊細な手つきで選び抜かれ精緻に組み立てられている。監督のルイ・マルはフランスのブルジョア階級の出身。趣味の良さでは人後に落ちない。映像には破綻のかけらもないが、物語は運命的な出会いが、1人の成功した男の人生を狂わせ、破滅させていくというものだ。しかし、その破滅はあくまでも社会的なものであり、家庭や地位や名声を失っても、じつは自分の情熱を初めて十分に生きられた悪魔的な充実感に満ちている。たとえそれが自分の愛する息子の死によって劇的な終わりを告げようとも、十全に生きた記憶を深めるだけなのだ。彼の罪をあがなうのは、むしろ平穏であったそれまでの彼の人生——最も深い自らの要求を眠らせていた無知の時間にこそあるのかもしれない。 (奈)