日本映画をどうするのか'94

11月23日 「日本映画をどうするのか'94」 (やまばとホール)

夏の庭
The Friends
1994年/読売テレビ放送/1時間53分
 
監督=相米慎二
原作=湯本香樹実
脚本=田中陽造
撮影=篠田昇
音楽=セルジオ・アサド
美術=部谷京子
出演=三国連太郎、戸田菜穂、淡島千景、笑福亭鶴瓶
 
[ストーリー]
 祖母の死をきっかけに“死”というものに興味をもち、死ぬところを見てやろうと、近所の独り暮らしの老人・傳法喜八(三国)の見張りを始める小学校6年生の3人組。掃除、ペンキ塗り、庭いじり…と奇妙な交流は続く。そんなある台風の夜、心配して駆けつけた3人に、老人は少しづつ自分の過去を話し始める…。
 
[コメント]
 核家族化は進み、マンション住まいも増え、今の子供にとって日常生活から「老人」や「庭」というものが遠い存在となった現在。「死」への興味から疎遠な者と疎遠な場で交流する3人の小学生。初めは反発しながらも、互いの中で確実に変わりいく、「庭」の変化の如く……。(“庭”ーーそこは住まう人、手懸けた人の「人柄」や「こだわり」が宿る場所)老人の死は唐突にやって来る。3人は理解しただろう、言葉では説明し得ぬ、それでいて極めて身近な「死」というものを……。(“死”ーーそれは人との「交流の深さ」「想いの大きさ」を瞬時に表わすバロメーター)老人は去り、崩れかけた家。あの時、老人と3人はどんな者より「家族」らしかったに違いない。そんな3人だからこそ古井戸を開ければいつでも老人と過ごしたあの「夏の庭」に出会えるのだろう…。 (学)

トカレフ
1994年/サントリー、バンダイ・ビジュアル、荒戸源次郎事務所/1時間43分
 
監督・脚本=阪本順治
原案=徳田寛
撮影=石井勲
音楽=梅林茂
美術=金勝浩一
出演=大和武士、西山由海、佐藤浩市
 
[ストーリー]
 幼稚園バスの運転手をしている西海道夫(大和)は、登園途中のバスから一人息子のタカシを誘拐されてしまった。警察の不手際から犯人を逃し、タカシは死体で発見された。道夫は、タカシの運動会のビデオのなかに、同じ団地内に住む松村計(佐藤)の姿をみつける。奴が犯人に違いない、と訴えるが警察にも妻あや子(西海)にも相手にされない。一人執拗に追及する道夫は、ある日、計の部屋にひきずり込まれ、銃口をロの中に突き込まれて撃たれる。九死に一生を得た道夫のもとからあや子は去り、復讐の鬼と化した道夫の犯人捜しの旅が始まる。
 
[コメント]
 凶々しくも危険な映画である。幼稚園児の誘拐、脅迫、殺害ーーという一連の事件をスクリーンに生起させ、やがては狂おしい情念のドラマを、酷薄なまでの質感をたたえた緊密な構成によって描き出す。ワンカット、ワンカットが、説明的であることなしにストレートにサラリとした質感を伝えてくる力技は見事と言うほかない。しかし、さらに観る者を圧倒するのは、終盤、情念のドラマと見えた物語の流れをあっさりとひっくり返してみせるところだ。つまり、ドラマの完成へ収赦しようとする求心力を排除することによって、定型化されえない混沌とした地点へと観る者を突き落としてみせるのだ。現在の日本に生きる人間のありようの図り難さを、生々しく丸ごと突き付けてくるのである。その不気味さ、忌々しさ。他人の殺意と憎悪が極限に達して、初めて、指抗しうる(負の)生のうねり。もはや、恋愛劇や犯罪劇といった生半可な虚構では表現することのできない、重苦しく狂暴で、しかも無機的な裂け目が、ここではパックリと口を開いている。その寄怪な塊が強烈な嫌悪感を呼び起こすと同時に、私たちの生ぬるい映画観をも手厳しく撃ち抜くのである。これほど面白く、またこれほど危険な力をもちえた『トカレフ』という映画は、現在の日本で望みうる最高傑作の一本である。 (奈)

青空に一番近い場所
1994年/サードステージ/1時間42分
 
監督・脚本=鴻上尚史
撮影=長谷川元吉
音楽=金橋豊彦
美術=佐々木修
出演=吉岡秀隆、長谷川真弓、真屋順子、三浦友和
 
[ストーリー]
 会社の厳しいノルマ中、北川(吉岡)はサラ金から借金したお金で商品を買って、売上No.1のセールスマンの座を保っていた。しかし、あっちこっちからのサラ金の取立て、セールスが伸びなかった同僚(三浦)の自殺を目の当たりにして、中川は会社の屋上に逃げ込む。そこで彼を迎えてくれたのは、清掃婦のおばあちゃん(東屋)と記憶の中の少女とウリ2つの花菜子(長谷川)だった。3人が屋上で、子供の頃の遊びに熱中していると、死んだはずの同僚が現れ、仲間に加わる。そして屋上を昔遊んだ原っぱに変えていく‥‥‥。
 
[コメント]
 この作品では会社でのノルマ至上主義によって人間性を失ったサラリーマンが、屋上で子供の頃にやった遊びをすることで、屋上を飛び降りる場から人間性を取り戻す場に変えていくといったテーマをストレートに表現している。『夏の庭』で、老人の死によって子供たちに残された庭に咲いた一面のコスモスは、これから成長していく子供たちに老人が与えたメッセージの余韻を残していたが、本作での屋上に咲き誇るひまわりは、お陽様に向かって前向きに生きようという作り手のメッセージが明快に語られている。終盤、三浦友和をはじめとした自殺した人たちが差し出すひまわりを観て、これが舞台であったならもっと胸にこみあげてくるものが大きいだろうと思った。それは、主題を背負った屋上が映画的空間としてよりも舞台空間としてふさわしく感じられたからなのだが、現在の映画ではテーマ性を表面に浮かび上がらせた虚構の壕を創りだすことが難しくなっていることに起因しているのかもしれない。この作品を観ている間、ほわほわとした幸福な気持ちになれたのは、鴻上監督の映画に対する、人間に対する真摯な態度が清々しいまでにスクリーンに伝わってくるからだろう。10数年前にNHKの『太陽の子』のふうちやん役を観て以来ずうーっと気になっていた長谷川真弓ちやんを、こんなチャーミングな落第天使にしてくれたことを含め、鴻上監督に感謝。 (淳)

棒の哀しみ
1994年/ユニタリー企画、ティー・エム・シー、ヒーロー/2時間
 
監督・脚本=神代辰巳
原作=北方謙三
脚本=伊藤秀裕
撮影=林淳一郎
音楽=小田たつのり
美術=澤田清隆
出演=奥田瑛二、永島暎子、白竜、春木みさよ
 
[ストーリー]
 組長のために8年間も刑務所にはいっていたのに田中(奥田)には、やばい仕事しかまわってこない。組長は、跡目抗争に負けた田中に分家の組を作らせ、上納金を絞り取る。しかし、組長は意識不明の重体となり、組は倉内(白竜)の手に。すきをみた田中は敵の組の若い者にわざと自分を刺させて、本家に貸しを作り、立場をひっくり返していく。組長の葬式の日、田中のくわえた煙草にライターを差し出す倉内の姿があった。
 
[コメント]
 気づかぬ間に90年代も半分近く過ぎたが、90年代というのはどういう時代なのだろうか。高度成長期の後にやってきたバブルの時期も過ぎ去り、単にしらけているわけでもないが、かといって活気があるわけでもない、何の不足もないが、かといって目標もない、捉えどころのない時代。奥田瑛二が演じる田中はヤクザ稼業を生業としているが、そんな90年代の世相を象徴した人物に他ならない。「こんなに仕事がうまくいくなんてどうかしてるぜ、俺にはこんなのは性に合わないんだ」と棒っきれのようにつぶやく姿に現代の会社に疲れきった、燃焼し切れないサラリーマンの姿がダブってみえる。仕事がうまくいっても達成感もなく、次の目標も見えてこないけれど、だからと言ってマイホームパパに徹することもできない、中途半端な俺って存在はなんなんだろうと言う…。
 それにしてもこの田中って奴は面白過ぎるぜ。ボタンつけを器用にするかと思えば、同じ裁縫道具で刺された自分の腹を縫い合わせるし、はたまた手ぶらで恐喝に行ったかと思えば、今度は自分のマンションのフローリングをこまめに雑巾がけをする。こんなマルチ人間のヤクザがいることに観ていて何ら疑問を感じないのは、「やっぱり世も末(世紀末?)だからなのかな」とフト思った。 (淳)