日本映画をどうするのか’95

11月26日 「日本映画をどうするのか’95」 (やまばとホール)

GONIN
1995年/ぶんか社、イメージファクトリー・アイエム/1時間49分
 
監督・脚本=石井隆
撮影=佐々木原保志
音楽=安川午朗
美術=山崎輝
編集=川島章正
出演=佐藤浩市、本木雅弘、根津甚八、竹中直人、永島敏行、ビートたけし
 
[ストーリー]
 バブル崩壊によつて社会から弾き出された、スネに傷もつ5人の男たち。ある者は多額の借金を抱え、ある者はリストラで首を切られた。そんなやつらが暴力団の金に目を付けた。一発逆転の賭けにでて、第二の人生をやり直すのだ。こうして計画は難航しながらもうまくいったかのようにみえた。しかし、報復に出た組が放ったヒットマンによつて、一人ずつ確実に追い詰められていく……。「5人」を演じるのは、佐藤浩市、本木雅弘、根津甚八、竹中直人、椎名桔平。それを迎え撃つ組長に永島敏行、雇われの冷酷非情ヒットマンをビートたけし、木村一八が熱演している。ハイテンションな演技を見せる男たちの、男の美学に縁取られた強烈な作品。
 
[コメント]
 石井隆監督の「GONIN」はクセもの投者がズラリと顔を揃えたバイオレンス・アクション。製作総指揮は奥山和由で、ビートたけしの事故後の復帰第一弾としても話題になった。夜を描き続けてきた監督らしく、本編もその約八割が夜のシーンである。ラバーのように人工的で艶めかしく黒光りする「夜」と、それを彩る血の鮮烈さ、その劇画的で濃密な画面づくりは、観る者を魅了する。また、登場人物がことごとく死んでいくのも石井作品ならではで、今回もこちらの願い虚しく、「そして誰もいなくなった」状態で幕は閉じる。しかし、かといって緊迫した暴力シーンの連続で、後味が悪いかと言えばそうでもなく、なぜかホッとしてしまうから不思議だ。 (志)

EAST MEETS WEST
1995年/松竹、FFE3、喜八プロダクション/2時間4分
 
監督・脚本=岡本喜八
撮影=加藤雄大
音楽=佐藤勝
美術=トビー・コルベット
編集=川島章正
出演=真田広之、竹中直人、岸部一徳、アンジェリツク・ローム
 
[ストーリー]
 1860年。時は幕末、維新の嵐の吹き荒れる頃のこと。日米修好使節団の一行は、咸臨丸にてサンフランシスコに到着する。その中に水戸浪士・上條健吉(真田)と忍者・為次邸(竹中)の、野望に燃える二人の男がいた。使節団の到着でにぎわう最中、三千両の小判を強盗に奪われてしまう。騒ぎに巻き込まれた上條は、強盗に父親を殺された少年・サムとともに強盗一味を追う。為次郎もまた、上條が使節団の暗殺を狙っていたことを知り、上條の命と三千両を追つて東へ。道中、インディアンの娘・ナンタイ(A・ローム)やサムの教師・ハーディを仲間にして、日本刀対リボルバーの決闘の火蓋は切られたのだつた。
 
[コメント]
 ベテラン・岡本喜八監督がついに念願のアメリカに乗り込み、正真正銘の「西部劇」を撮り上げた、執念の一作。キハチ映画は「独立愚連隊」や「暗黒街」シリーズといったアメリカ映画のエッセンスをちりばめた作品が多く、とくに「愚連隊」シリーズでは、御殿場ロケでの中国の砂漠が、まるで西部の荒野のように描かれていたし、「ジャズ大名」では冒頭で監督御本人がインディアンの酋長役をやるほどの、並々ならぬ思い入れがあつたのだ。本作において、サムライとニンジャが出てくる西部劇という意表を突いた設定ながら、最近のハリウッド映画が作る西部劇よりしっかりとした正当西部劇である。また主演の真田・竹中両氏の演技もすばらしく(竹中氏はTVの「恋のバカンス」そのまま!)ナンタイ役のアンジェリック・ロームもキュートだし、サム少年役のスコット・バッチッチャ君の殺陣はお見事! の一語に尽きる。さて、あのあと二人はどうなったのか、それは「EAST MEETS WEST」に期待いたしましょう。 (嶋)

あした
1995年/アミューズ、P.S.C.、イマジカ、プライド・ワン/2時間20分
 
監督・撮影台本・編集=大林宣彦
原作=赤川次郎
脚本=桂千穂
撮影=坂本典隆
音楽=学草太郎、岩代太郎
美術=竹中和雄
出演=高橋かおり、林泰文、植木等、峰岸徹、原田知世
 
[ストーリー]
 小型客船・呼子丸が嵐のなか尾道沖で遭難し、乗客9人全員の絶望が伝えられてから3ケ月。残された恋人、夫、妻、家族のもとに“今夜午前0時、呼子浜で待っている”という不可解なメッセージが届いた。夜の呼子浜の待会所、ひとり、またひとりと人が集まつてくる。ヤクザの組長・金澤(植木)とその一行も到着した。旅行中、たまたま居合わせることになつた女子大生・法子(高橋)は、金澤の子分のなかに幼なじみだつた貢(林)がいることに驚く。———様々な人間模様のなか、それぞれの想いを胸に死者たちとの“約束”の時間を待つのだった…。
 
[コメント]
 この作品にとりわけ主人公なるものは存在しない。逆に誰もが主人公になりうるとも言える。不意の事故で恋人や家族を失った人々。それでも、高校生、サラリーマン、未亡人、ヤクザの組長……としていつもどおりに生き続けなければならないのが現実。“今夜0時、呼子浜で待っている”この一つのメッセージがそんな日常に希望を与える。「死んだはずの人間にもう1度会える!」高まる期待と不安。皆が一点を目指し集まり行くシーンが印象的。“約束”の時間、死者たちは生きていた時と何の変哲もなく船を降りてくる。だが一度の再会は二度目の別れを伴うこととなる。その一時のかけがえのない時間の中で、それぞれがそれぞれの想いでドラマを展開し、それぞれの「あした」を迎える。その様々なドラマが交錯し、この作品を形づくつている。観客もまた、自分の感覚や立場で、その人々やドラマに焦点をあて、共感や感動を得、「あした」を生きていくのだろう…。 (学)