第31回映画祭TAMA CINEMA FORUM
シュールを極めた映像と物語に現れる鋭い風刺性が今なお光る。大人は怪獣を見れば飛び上がり、子供たちはカネゴンを当り前に受け入れる。怪獣だって多様性のなかにいてもいいじゃないか。いつぼくらがカネゴンになってもおかしくない世の中なのだから。
作中の荒野は現在の多摩市・聖ヶ丘の辺りで撮影されたと言われているが、本作の放送と同年に多摩ニュータウン開発にまつわる事業が決定された。カネゴン騒動の舞台となる工事現場は、多摩ニュータウンの開発当初の風景を映したものだったのだ。(横)
多摩市と同じく、50周年を迎えた仮面ライダー。本作は劇場版第2作目となる。50年経っても面白さは観ればすぐに分かる。ショッカー怪人軍団とダブルライダーのアクションに継ぐアクション! 格闘に剣戟にバイクに崖落ちに大爆破、あらゆる見せ場をすべて詰め込んだような凄まじい密度。観終わった満足度はたった32分間のそれではない。ただライダーがいる、それだけで圧倒的安心感。なんて思っていたら、崖上から名乗りを上げる再生怪人軍団のあまりの魅力に、思わずショッカー軍団、万歳! なんて叫びたくなる。この感動に理屈なんてないのだ。
仮面ライダーが活躍を始めた1971年に多摩ニュータウンの一次入居が開始され、本作の撮影地の一つとされる桜ヶ丘地区もひとまずの開発を完了した。本作はその最中の出来事だった。人間の自由のために戦った仮面ライダーは、ぼくらの街の始まりを守ってくれたヒーローだったのである。(横)
学園ドラマとハードSFが融合し、日常の狭間に侵食するSF感が見事な本作。綿密なメカ描写や四次元空間の幻想描写は、現物を撮影したからこその異様な空気感があり、アナログ特撮の到達点を垣間見る。
四次元空間の駅とメカギラスの基地にされた街、これは完成から約5年後の京王/小田急多摩センター駅と、そこに新しく生まれたばかりの街で撮影されていた。かつての穏やかな農村から突如現れた街、多摩センターは「まぼろしの街」の舞台にうってつけだったのかもしれない。(横)
超低予算なんて一目で分かる。だが、この作品唯一の多幸感がある。
「オッスよろしく!」→バーン(殴打)。怪獣の戦いに理由はいらない。泥だらけでもとにかく戦う。勝った方が正義。「怪獣道とは、生きることと見つけたり……」延々と続くファイトから、怪獣哲学を勝手に想像する。いや、制作陣はそんな深く考えていたのだろうか? 真相は謎だが、くたくたの怪獣たちと軽妙な実況を緩い気持ちで観ていると、いつの間にかその世界に入り込む。なぜか突然本気で格好よく見える瞬間がある。謎の真実味があるのだ。
撮影地はその辺の造成地で、怪獣が暮らすにはやたら親しみやすい風景だが、多くが当時の稲城周辺など多摩地域に似ているらしい。人間が住む前、多摩は怪獣たちの世界だったのだろうか?開発が進んだ現在、彼らはどこへ行ったのか。ちょっと多摩の藪の中を覗いてみよう。今でも怪獣たちはどこかでファイトしているのかもしれない……。
なお本作の制作担当を務めた故・熊谷健氏は当映画祭の初代実行委員長でもある。まさに「もう一つの多摩史」を創造した偉業に敬服したい。(横)
1964年生まれ、東京都出身。文筆家。編集者を経て93年「怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち」で著作デビュー。映画、コミック、音楽、文学、社会問題をクロスオーバーした批評活動を行う。2001年「宮崎駿の〈世界〉」でサントリー学芸賞受賞。著書に「怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影」、「本多猪四郎 無冠の巨匠」、「山田洋次の〈世界〉」、「失恋論」など多数。映画雑誌「キネマ旬報」に95年からピンク映画時評を連載中。17年、映画『青春夜話 amazing place』を監督。19年より中央線阿佐ヶ谷で古書店兼駄菓子屋「ネオ書房」を経営。
1954年生まれ、東京都出身。たまロケーションサービス副代表。引越/転校を繰り返し、まんがとプラモデルが大好きな小学生時代を過ごす。中学~高校では写真・映画の魅力/魔力に取りつかれ、大学では、専攻学科そっちのけで、映画鑑賞、映像制作・映画ごっこに明け暮れる。趣味なのか本気なのか、はっきりさせぬままフィルムメーカーに就職し、映画と直接は関係ない事業分野で、それはそれで極めて充実したサラリーマン生活を送る。その後、多摩市フィルムコミッション「たまロケーションサービス」と半ば運命的に出会い、映像制作現場にカムバック、現在に至る。
公益財団法人多摩市文化振興財団学芸員。パルテノン多摩の学芸員として、「武蔵国一之宮」「関戸合戦」「アニメーションと多摩」「災害と多摩」「ニュータウン誕生」などの展示を担当。