第29回映画祭TAMA CINEMA FORUM
舞台は大阪の旧赤線地帯(釜ヶ崎)。19歳のトメ(芹)はドヤ街の近くで売春婦をしている。弟の実夫(夢村)は知的障碍者。母のよね(花柳)は40歳を過ぎてなお現役の売春婦だが、あぶれることが多い。ある日トメは、よねの情夫と寝たことで、よねと母娘喧嘩をしてしまう……。
売春防止法が施工されて20年経つものの根強く残る売春婦とその街の人々の生きざまが鮮烈に描かれている。天上へと聳え立つ通天閣からズームアウトして映る釜ヶ崎の石段で「うちな、なんや逆らいたいんや」というセリフを発して街娼になったトメ。そのセリフは自分を売春婦として雇っていた百合(絵沢)への抵抗であるだけでなく、釜ヶ崎に生まれた己の運命への抵抗の意が含まれている。底辺の薄汚れた街で売春婦の娘として生まれ売春婦として生きる自らの生へのそこはかとない耐え難さが、その言葉を口にさせる。ここではないどこかを無意識的に求めつつここで生きる他ない彼女は、自らの肉体を男の快楽に捧げながらこの地上の世界を彷徨する。汚らわしい自らの運命を顧みつつそれでもなおこの生を力強く生きる彼女の倒立を見よ。それは内と外、天と地を転倒させる滑稽だが美しい技芸だ。変わりゆく時代と街のなかで取り残された人々の持つ猥雑な生命力を捉えたロマンポルノの枠を越えた傑作である。(佐友)
ある日、飛田遊郭をしきる釜足組の大事な代紋入りの「お釜の盃」が盗まれた。大慌てで釜を探す釜足組のチンピラは、街中の釜を買い漁り始める。釜の値は高騰し、「釜が売れる!」という噂を耳にした街の人たちは、釜泥棒に躍起となった。泥棒の大洞(川瀬)は、この儲け話にしたり顔で参加する。私娼のメイ(太田)、孤児の貫太郎(門戸)も、あれよあれよとこの騒動に巻き込まれていく。
16mmフィルムで釜ヶ崎オールロケ撮影を行った佐藤監督は、人間のおかしみを描くとともに切実な状況にコネクトしている。オリンピックだ万博だ、ともっともらしい言葉で作り変えられる街並み。かつての臭いがなくなり、そこにいた人間の営みや路地裏の怪しさは跡形もなく書き換えられていく。現在の釜ヶ崎の東には、『(秘)色情めす市場』に出てきた通天閣よりも高いあべのハルカスが聳え立っている。
闇鍋のように何が蠢いているかわからないなか、有象無象が行き交い泥のように眠る。安全圏と思ってみている人は本当にそうなのか。巧妙かつ狡猾に刷り込まれるOBEYをかいくぐり、茹でられる前に踊りたい。赤いスカートの女が無縁仏の眠る墓地で踊る命のきらめき。
これは釜ヶ崎だけではなく、東京でも起きていることだ。なじみにしていた駅前のカフェが再開発で店を閉めてしまった。このカフェでは映画の上映も行っていて、動かない映写機にあの夜がこびりついていた。なかったことにされる前に狼煙をあげる。動くな、死ね、甦れ!(内)
1981年生まれ、京都府出身。2005年より映画監督佐藤真に師事し、ドキュメンタリーを学ぶ。07年、大阪長居公園テント村の野宿生活者たちの姿を記録した『長居青春酔夢歌』がYIDFFアジア千波万波(2009)にノミネート。個々人としてドキュメンタリーを制作するのではなく、集団的な批評や議論を必要とした関西の若手ドキュメンタリストの集団NDS(中崎町ドキュメンタリースペース)の立ち上げに関わる。「映画と社会変革」を自身の創作活動のテーマとしている。