第35回映画祭TAMA CINEMA FORUM
詩人フアナ・ビニョッシが死んだ。彼女の詩を後世に残したいと願う若い詩人のメルセデス・ハルフォンは、映画監督のラウラ・シタレラたちと映画制作を決意する。遺品を整理しながらビニョッシに向き合っていく女性たち。計画なくはじまったこのプロジェクトは、やがて彼女たちも予想しなかった複雑で繊細なものへと形を変えていく。
フアナ・ビニョッシという詩人が亡くなり、遺言執行人となった詩人のメルセデス・ハルフォン。遺品整理を撮影するも限界を感じた彼女は、映画監督ラウラ・シタレラに撮影を依頼。ただ事態はそう簡単に運ばない。多くの逡巡(しゅんじゅん)がこの映画には映り込む。詩と映画という本来交わらない二者の間で起こる対立。記録と演出、資料と映画。詩は撮ることができるのか……。メルセデスとラウラと思(おぼ)しきナレーションが交互に被(かぶ)さり、カメラはインタビューの様子とそれを映像に収めんとする撮影隊の間を切り返していく。この映画のカメラには意図的な中立性があり、その対立と逡巡の間を通り抜けていく。それはまるで遺品に詩人の多くの側面を垣間見て右往左往する詩人たちと撮影隊の目線のようでもあり、その様子を見て笑うビニョッシの目線のようでもある。その死は詩人本人との対峙を迫るだけでなく、詩、映画そのものとその拡(ひろ)がり方の捉え直しにも及ぶ。作品は断片として受け手のなかに生き、そのたびにわたしたちは異なる形で作家たちと再会し続けるのだ。(弦)
イタリアの小説家チェーザレ・パヴェーゼの著書「レウコの対話」における「波の泡」という章で描かれた、古代ギリシャの詩人サッフォーと人魚の女神ブリトマリスの対話をもとに物語が展開。実験的な本作では、サッフォーの断片的な詩が映画のなかで視覚的に表現され、現代を生きる女性の物語と重なりあっていく。
チェーザレ・パヴェーゼの著作にあるサッフォーとブリトマリスの神話的描写を源泉としつつ、映画や人間の断片性と普遍的な側面を、単なる物語とは異なる映画的言語を用いて描きだしていく。タイトルの『You Burn Me』はサッフォーの発見された詩の断片の英訳だが、それを更に断片化し、そこに対応させる形で映像が重なっていく。その映像の断片はある女学生の物語の一部でもあると後に判明する。この重なりが生む厚みには映画の形式的な拡張と詩のあり方とが含まれるのではないか。それは映像と音のリズムとが人の身体に詩とともに浸透していくさまであり、かつての詩人が恋焦がれたさまを、遠く時を隔てた女学生が繰り返す様子でもあるのだ。「波の泡」に代表される姿を変える水のモチーフは、劇中サッフォーとブリトマリスが身を投げたとされる場所である海へ続くのはもちろん、人間存在にまつわる多くの循環を想起させ、詩や映画が断片として浸透していくという根源的概念を観る者に実感として押し上げていくことを可能としている。(弦)
1982年ブエノスアイレス生まれ。2011年よりニューヨーク在住。監督、脚本家として、作品はベルリン、ロカルノ、カンヌといった国際映画祭でプレミア上映されている。題材にはC・パヴェーゼ、シェイクスピア、サッフォーなど文学作品を原案としたものが多い。ニューヨークのプラット・インスティテュートの准教授、サン・セバスチャンのエリアス・ケレヘタ・ジン・エスコラの映画制作プログラムのコーディネーターを務める。現在2つの新作が進行中。『You Burn Me』は長編最新作にあたる。
1994年生まれ、岡山県出身。東京外国語大学大学院博士後期課程所属。チリやキューバを中心にラテンアメリカの映画について研究している。主な論文に「証言映画としての『チリの闘い』――闘争の記憶を継承するために」(『映像学』)など。字幕翻訳や上映会企画、映画祭予備審査なども行う。配給担当作品に『トレンケ・ラウケン』(ラウラ・シタレラ監督)や『ユリシーズ』(宇和川輝監督)がある。